昨今、『Ally』という言葉が使われ始めています。
Ally(アライ)とは、味方を意味する単語で特にLGBTQに限定した言葉ではありませんが、日本ではLGBTQ関係の場面で多く使われています。
企業や行政などで性的マイノリティの人々に共感し寄り添いたいと思っていることを分かりやすく表明するためにAlly表明をすることもあります。
Ally表明に関して、当事者としてどう思うかとよく質問されます。
正直、個人的には必要ないかと思います。
ただ表明することで安心してそのサービスを受けに行くことができたり、疑心暗鬼になることなくお話しができたりと精神的に助かっているLGBTQの当事者もいるかと思います。
しかし一方で、Allyになろう、Allyを増やそうという動きも見受けられることがあり、ここに僕は警鐘を鳴らしたいと思います。
なぜなら、過度にこの動きが進むとAllyではない人はいけない、悪とまではいかなくても『Allyにならなくちゃいけない』と思う人が出てくるからです。
性的マイノリティに限らず、海外の方や障がい、その他ありとあらゆる少数派とされている事柄や存在に対して理解を示すことは強制されることではなく、その人が心から思うことが大切だからです。
強制してしまっては、逆差別になりかねないばかりか、真のダイバーシティな日本には到底なりえないと思うのです。
人間は全員が全員、差別も偏見もなくいられるものではありません。
汚いところもあり、綺麗なところもあり、それを表に出したり出さなかったりの繰り返しです。
本音と建て前があり、それを立場、場面、時代などを考えて行動するものです。
色々な気持ちや考え、価値観があって当たり前。
性的マイノリティが理解できない、分かりたくないと思う人がいて当たり前なのです。
理解できなくても、分かりたくなくてもいいから攻撃や嫌がらせはしないで欲しいのと同じで、理解しろ、分かるべきだというのも強要になります。
双方の正義があり、双方の価値観があるのが人間らしさだと考えます。
ただ前述したとおり、立場、場面、時代などがあります。
公の場で、個人的な感情や価値観を公表してしまい、炎上してしまう社会的に肩書がある方々も少なくありません。
そりゃそうだと思いますが、個人で思う分には自由なのです。
だからといって、あなたはあなただから、関係ないと割り切りすぎてしまうのも悲しいと思ってしまう自分がいます。
僕が最高に幸せだと思うのは、お互いの価値観をテーブルの上に広げて、シャフルし、お互いの価値観や意見を知り、お互いを認め合える関係になった瞬間です。
それが相手を尊重した関係であり、多様性だと信じています。
あんたはどう思う?
自分はこう思う。
あなたはこうなんだ、僕はこうだよ。
意見は違うけど、その考えからもあったんだね。
違う視点があることに気づけたよ。お互いを知るって面白いね。
そんな優しい会話が増えることが理想です。
Allyを表明することが本当に必要なのか?
表明することがすべてになっていないか?
表明して(してもらって)終わりになっていないか?
表明することが全てではありません。表明しても中身が追い付いていないと意味がありません。
表明しよう!と自分達の意見を押し付けたら本末転倒です。
僕たち性的マイノリティは偉くもないし、特別でもなく、ただの人です。
社会に強要する前に僕らの素行から見直したいと思う事も多々あります。
LGBTQの人、Allyの人、といった括りでその人の人格を見るのではなく、その人そのもの、その企業そのもの、など本質をみれるようになりたいものです。