性同一性障害として生まれた意味
みなさんこんにちは。ライフ部門のあいです。
突然ですが、みなさんは自分の生まれた意味について考えたことがありますか?
私は無宗教なので神様とか運命的な観点からのお話はわからないのですが、個人的には生まれた意味なんてものはないと考えています。
意味は自分で作るもの、そう考えるからです。
故に性同一性障害として生まれたことにも自分で意味を見いだせるかが大切なのではないかと思います。
こう言うと、性同一性障害だったことで良かったことなんかないよ。辛いことばかりだよ。
そう思う方もいらっしゃるかも知れません。
でも、ちょっと自分の周りを見渡してみて下さい。あなたの友達や大切な人たち。その人と出会い、一緒にいられるのはあなたが性同一性障害に生まれたことも一因かも知れません。
男性(女性)の体に女性(男性)の心を持ったから培われた性格があり、その魅力にひかれて集まった友達や仲間もいるのではないでしょうか。
過去にも何度かお伝えしていますが、性同一性障害は病気ではなく個性です。
その個性によって築かれた今の全てが無意味なことなんてないと思います。
これもひとつ。性同一性障害として生まれた意味ではないでしょうか。
女性として?男性として?それとも。
性同一性障害の多くは男性、あるいは女性としてジェンダーと合った性別で生きることを望む人が多いかと思います。
私もずっとそう考えていて、実際に今は女性としての生活を手に入れています。
ですがここまできて。女性として生きることが出来て、自分が性同一性障害である、MtFであることを忘れられないことに気が付きました。もっと言ってしまえばMtFであったこと、ここにくるまでの苦しかったこと、一つ一つが忘れられないんです。
全部隠して、完全に女性として生きることはできます。それも間違いでは絶対にないのですが、今私は女性としてだけではなく、MtFのあいとして、その生き方に誇りと意味を持たせたいと考えるようになりました。
女性でもない、男性でもない。MtF、FtMとして生きる道もあるかと思っています。
ただ、現在の日本では戸籍は男性と女性しかありません。ここでいうMtF、FtMとしていうのは生き方の話ですね。
なんなら、性同一性障害であるということを公言することでもないと思っています。
では一体どういう生き方のことを言っているのか。それは自分は自分である。無理に女性、男性の型にはまらないということです。
性同一性障害、特にまだ身体が変化していない方に多いのが必要以上に望む性別に近付こうとしてしまうこと。
しかし周りの、いわゆる“普通”といわれる男女を見るとどうでしょう。
強くたくましい女性もいるでしょう。繊細で物腰の柔らかい男性もいるでしょう。
性同一性障害だからといって、無理矢理“女性らしさ”“男性らしさ”を突き詰める必要はないと、そう思います。
身体を望む性別に近付けることと、自身の個性や好みを変える必要はないはずです。
LGBT-JAPANの活動
さて、ここまで私は個性を大事に生きるべきだと唱えてきました。しかし、それは決して簡単なことではありません。
まだ偏見などもある世の中でカミングアウトしながら生きることは勇気が必要ですし、みんながみんなその勇気をもてるわけでもないことも理解しています。
その気持ちを理解した上で。私は、私たちLGBT-JAPANは、LGBTという存在が社会の中で当たり前に共存する個性になれるよう、活動しています。
ですからこれを読んでくださっている、LGBT当事者の皆さん。どうか、自分の個性をなくさないでください。
悩みを相談する相手がいなくて、悩むことがあれば私たちをたよっていただければ幸いです。