性同一性障害当事者として

みなさんこんばんは。ライフ部門のあいです。

さて、今回のタイトル。ちょっと過激ですよね。

LGBT-JAPANとして。LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)をノーマライズしていこうとする当事者が何故、『性同一性障害は気持ち悪い?』なんてタイトルを掲げたのかと、憤りを感じた方もいらっしゃるかも知れません。

ですが、誤解のないよう申し上げますと私は性同一性障害当事者であり、もちろん性同一性障害当事者を気持ち悪いというつもりはありません。

では何故、このようなタイトルにしたのか。

それは、減ってきているとは言えまだ私たち性同一性障害当事者を『気持ち悪い』と感じる方々がいるのも残念ながら事実だからです。

ですが、そう思われることに対して悲しんだり怒ったりする前にまず、どうしてそうなっているのか。どう向き合っていけば良いのか。今回はそんなことを私なりに考えていきたいと思いますので、どうぞお付き合いお願い致します。

何をもって気持ち悪いとするか

ではまず、根本的なことから考えていきたいと思います。

そもそも気持ち悪いとはどういった感情なのでしょうか。例えば赤ちゃんがおもらしをして、不快感を感じるといった気持ち悪い。これはわかりやすいかと思います。肌触りや臭いなどで不快感を覚えるということ。

では、今回の『性同一性障害が気持ち悪い』といった精神的な気持ち悪さはどうでしょう。

例えば私は虫が大の苦手です。ウネウネっとしたのが前を横切ると…と言いますか、この文章を書いている今も鳥肌がすごいです。

ではこの“鳥肌”はなぜたったのか。別に実際に虫に触ったわけでもないのにこういった不快感…“気持ち悪い”が起こるのは自分に対しての害を具体的に連想したからです。

まだこの例では、その話が『何故性同一性障害当事者を気持ち悪いと思う人がいるか』とは繋がりませんね。

では次の例ではもう少し連想しやすい例を挙げてみたいと思います。

私は過去に男性からストーカー被害を受けた経験があります。その経験からある特定の条件の男性を見ると『気持ち悪い』と反射的に思ってしまうことがあります。

これは過去の“気持ち悪い”体験を思い出し、それと結びつくことで感じる気持ち悪さです。

さて、ここで挙げた例は“過去の体験”に基づいたものでした。そしてこの過去の体験の部分は、メディアや人伝てに聞いた話など“作られたイメージ”に置き換えることができます。

小説やドラマ、アニメやバラエティー番組など。そこで“オカマ”“ニューハーフ”と言った人達が面白可笑しく。時に悪意とも取られるような過剰な“気持ち悪い”演出で登場する場面を見たことはないでしょうか。

そういったメディアでは彼女ら、あるいは彼らに対して“襲われる”“セクハラよろしく迫られる”といったように描いている節が少なからずあります。

つまり、ノンケ(心と身体の性が一致し、恋愛対象が異性の方々。所謂ストレート)に対して“害を与える”存在として演出されているわけです。

そういったことから、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)が身近な存在でない方は、性同一性障害などLGBTが全てそういった害あるもの=“気持ち悪い”という思考に至ってしまうのではないでしょうか。

しかし、メディアに出演しているオカマ、おネェ、ニューハーフと呼ばれる方々が悪いかと言えばそうではありません。

気持ち悪さを売りにしているノンケ男性、ノンケ女性の芸人さんだっていらっしゃいます。しかしそれにより、男性(女性)の全てが気持ち悪いという結論には至りません。

それは、男性(女性)の全てが一部のメディアにあるような気持ち悪い存在ではないことを理解しているためです。

つまり、性同一性障害当事者の中にも普通の社会人となんら変わらない。本当に普通の人達なんだという認識が、理解が社会に浸透していないことが問題である、と私は考えています。

当事者側に非はないのか

さて、ここまでで周囲の、つまりノンケ(所謂ノーマル、ストレート)の方々の不理解と認識不足とも取れるような物言いをしてしまいました。

ですが、私達性同一性障害当事者には本当に非はないのでしょうか。

性同一性障害をはじめとしたLGBTは病気ではありません。大多数の人と少し違う個性を持っているだけです。それについて、多数決ではじかれたとき私達はどんな反応をしているでしょうか。

泣いて隅におさまるか。怒り相手を弾圧するか。

もちろん人間ですからこういったこともあるでしょう。ですが、泣いて黙っているだけでは誰も助けてくれません。怒り戦うだけでは戦争です。

ここで自分の意思だけを押し付けることは、相手によっては“害”になり“気持ち悪い”という感情を更に植え付ける可能性すらあるかも知れません。

私達が今、少数派がこの時代に認められる為に必要なことは辛抱強い対話ではないでしょうか。

自分の認めてほしい部分だけを押し付けることは対話ではありません。

相手が提示するボーダーラインと、こちらが求める部分との折り合いをつけ、少しずつ歩み寄ることが必要なんだと私は思います。