同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル

みなさんこんばんは、ライフ部門のあいです。

今日は久しぶりに仕事がほとんどなく、家事と読書を楽しんだ1日でした。今日読んだのは4/16(土)にトークイベントでご一緒させていただく牧村朝子さんの『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル』という一冊。

ふんだんな情報量と、それでもスラッと読めてしまう読みやすい文章は改めて両性愛である自分を見つめ直す機会にもなりました。

診断法という独特な切り口ですが、内容は優しく中立的で今自分の性指向に悩む方には特にオススメです。

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私は両性愛者です

さて、そんな一冊を読んで、自分自身について改めて考えたところで少し自分語りをさせて頂きたいと思います。

私はMtF(生まれた体は男性、心は女性の性同一性障害)です。そして同時にバイセクシャル、両性愛者でもあります。

この2つの“属性”ついて、私はそこかしこに叫ぶことはしませんが、隠すことはしません。

それは、私にとってこの2つの属性は当たり前の自分でありわざわざ言うことでもなければ、隠すこともないからです。もちろん、気付いた時や過渡期には周囲の目や自身の中の葛藤に苦しむことも多々ありました。

しかし、それを乗り越えた今、私は両性愛である自分が好きである、と胸をはって言うことができます。

それは両性愛である自身の人生を大いに楽しんでいるからです。

これはあくまで私個人の感じ方なのですが、男性と付き合ったことでしか得られない経験、女性と付き合ったことでしか得られない経験というものが少なからず存在します。

それは恋愛として楽しむことはもちろん、人生の中で自分にない目線を取り入れることにも一役買ったと思っています。

女性を愛する私、男性を愛する私

さて、ここで今回改めて考えたみたとがあります。私はMtFで、つまり男性から女性へと社会的な生活を移行しております。

しかしながら私は自分の中に男性的な性格があるとを自覚しています。そしてそのきっかけになるのは両性愛だからかな?とも思っていました。

と、言うのも例えば小柄で可愛らしい女性に甘えられたら『ちょっと格好よくふるまっちゃおうかな』とか、または素敵な男性をみたら『少ししおらしくしていようかな』なんて考えたりするからです。

ちょっと前の私は前者の女性に相対する時の、男性的な自分を抑える傾向にありました。何故なら、それによって『あなたは女性じゃない。MtFじゃない』と言われてしまうことを恐れたからです。

しかしながら、私の中には確かに男性的な感性がありますが、社会的役割や身体は女性でありたい。精神的な安定を保つには女性であるしかないと思います。

この人によっては矛盾ともとられる私の葛藤は、ここ最近は自分の中でなんとなく共存していました。それは自分が女性としての安定した生活を遅れていた心の安寧によるものだと思います。

そして新たにもうひとつの答えが自分の中に生まれました。それは、『好きな人に好かれたいと思うこと。好かれるように振る舞うのは自然なこと。』ということ。

人が人を「同じ同性愛者の仲間」と呼ぶのは、人が人を「自分たちとは違う同性愛のやつら」と認識するのは、もともと「同性愛者/異性愛者」の間に線が引かれているからではありません。人が言葉によって線を引いたからです。

これは本文の引用ですが、要するに人を好きになるときに、相手の性別だの自分の性別だのに理由を求めるからややこしくなるんだと思います。

自分の性別がどうこうは別にして、好きになった相手が“所謂女性的な人”が好きならそうなる努力をする。“所謂男性的な人”が好きならそうなる努力をする。

人に好かれたいってつまりはそういうことだと思うんです。

だから、性同一性障害当事者が心の性別と同じ性別の人を好きなったことで、“自分のありたい性別”を疑う理由には決してならないと思います。

さいごに

牧村朝子さんが『同性愛は「病気」なの? 僕たちを振り分けた世界の「同性愛診断法」クロニクル 』の中で伝えたかったこととは、もしかしたら違う受け取り方かもしれませんが、ここで紹介された数々の歴史や考え方によって、私はまたひとつ自分の性に対する理解を掘り下げることができました。

ご自分の性別や性指向に悩む方は一度手にとってみてはいかがでしょうか。